昭和45年02月27日 朝の御理解



 御理解 第92節
 「神は一体ぢゃによって、此方の広前へ参ったからと言うて別に異う所はない。彼所ではおかげを受けたけれど、此所ではおかげは受けられぬと言うのは守り守りの力によって、神のヒレイが異うのぞ。神の守をしておれば、諸事に身を慎み、朝寝をしてはならぬ。早く起きると、遅く起きるとは、氏子が参詣の早い遅いにかゝはるぞ。」

 取次者、いわゆる先生と言われる人達に教祖様が御理解下さったものだと思われます。金光様の先生をするなら、神の守をして居れば諸事に身を慎み、朝寝をしてはならぬ。早く起きると遅く起きるとは、氏子の参詣の早い遅いに係わるぞ、と。云う風に教えて居られる訳ですが。やはりここの所をですねえ。そんならお道の信心をさせて頂く者も、ここの所が体験の上でも良く分からしてもらい。
 言うならば、一遍お参りをしたよりも三遍、三遍お参りしたよりも十遍いや毎日、日参すれば日参するがたあると云う様にですねえ、そこん所をはっきり体得して、お道の教師が早く起きると、遅く起きるとは、氏子の参詣が早い遅いに係わるぞと云う事を、本当にそうだなあ、教祖様が仰って居られる事は、嘘ではないなあと、云う事を体験して行かなければならない様に、信者でも、同じ事が言えると思うのですよ。
 ですからここの御理解は、あながち教師だけ、取次者だけでなくて、一般信者もここの所の内容、意味を分かる事に依って、金光様のご信心の有り難さが、いよいよ倍加して来ると云う気が致します。云うなら教祖様が製造元であるならば、教会はその卸し売り場。そうすると皆様は小売り売り場と云う事ですから。ですから一貫したもの、同じものなんです。頂いて居るものは教祖様の所で製造される。
 それを教会で卸し売りをさせてもらう。皆さんが小売りで、それを捌かれる、と云う事にまあ成るのだと思います。成る程、神は一体じゃによって、此方の広前へ参ったからと言うて別に異う所はない。天地は金乃神様と云う神様は、何処へ参ったって同じだと。これはまあ、言うならば金光教と云う事ではなくても良いと思うのです。仏教と言うても良いかもしれません。キリスト教と言うて良いかもしれません。
 やはり教えがあって、其処に人間のいわば救済と言うですか、いわゆる難儀な氏子の助けられると云う事。それをお道では取次ぎ助けられると申します。助けられると云う事においてはですね。おかげの出所と云うのは、やはり天地だと思います。おかげの出所は天地より他には在りません。ですから成る程、神は一軆ぢゃ、けれどもそれを表された宗祖、教祖の生き方が違う、と云う風に頂いてもいいんだと思います。
 そこで、そんなら守り守りの力によってです。それを表された宗祖、教祖の、言わば信心の力によって、助かる助からないと云う事が決め手に成る訳ですね。それを又、お道の信心だけに言うてもいいですね。此処に合楽教会があり、其処に三井教会があり、旗崎教会がある、ね。久留米教会があり、又、田主丸教会があり、吉井教会がある訳なのです。ね。だから、何処へ参ったって同んなじなんです。
 同んじなんだけれども、そこに守り守りの力が違うとこう。其処の神様に奉仕しておる先生の力が違う、と云う事になる訳です。そこで、其の力が違う様に、これは先生だけの力じゃいけない。言うならば卸し売りの力もなからねばならんが、小売りされる方の力も其処にはなからな出来ん。そうでしょうが。ですから、やはり其の力によって神のヒレイが違うと、こう仰る訳だから。ね。
 言うならば力に依って売れ方が違うと云う風に言っても良い訳です。私がどんなに良い商品を皆さんに卸してあげても、皆さんが其れを売り切らがなかったらいけんでしょうが。だから卸し売りにも力がいるが、小売りにも力がいる事になる。そう云う意味で、是は、あながち教師だけではない、教会だけではない、是は全体がですね。此の御理解のまあ芯とでも云う所をです。
 分からして頂いて、例えばここに、神の守をしておれば諸事に身を慎み、朝寝をしてはならんと言うて居られるが、なら神の守をして居る者だけではなくて、金光様の御信心を頂いておる者は諸事に身を慎み、と、だから言える訳です。朝寝をしてはならんと。金光様の御信心は朝参りからだと、そこでどんなに素晴らしい事を言うたって朝参りも出来んどってから、言う事は空論だとさえ言う人があります。
 朝参りが出来ずしといて、金光教を語る資格は無いと、まあ決め付ける訳ですねえ。又、事実そうだと思います。例えば私が五時の御祈念の時には、もう御祈念が終わる頃に皆さんが集まられる、成る程樺目のお広前が、いっぱい、皆さんが集まりましたけれども、そんな感じでしたでしょう。ところが見てご覧んなさい。私が四時の御祈念を仕えさせて頂く様になったら、もう、五時にはお広前いっぱいでしょうが。
 成る程、教祖様は嘘を、おっしゃってない事が分かるでしょうが。例えば私が四時に起きるから、先生が早う起きよんさるから、私たちも少しは頑張らにゃと云う人もあろう。そんなら椛目時代だって同んじ事です。けれども、そんなら、やはり御理解に間に合えば良いと云う人が多かったです。ところが、そうではなくて、もうご記念を、若先生が御祈念の座に着く時には、皆さんもお広前の拝礼の座に付いて居られる訳ですからねえ。確かにそこん所が感じられるでしょう。
 早い取次をさせて頂く者は朝寝をしちゃならん。それは信者のお参りの早い遅いに係わると云う。そこでそんなら是を小売りで言うならです。やっぱ同んなじ様な事が言えると思うのです。ね。成る程一遍参るより三遍参る、三遍参るよりも十遍参る。いやお日参りも日参りも、朝参りが一番と言った様なそこに私ははっきり、そう云うおかげをですねえ、体験して行くと云う事が大事だと云う事に成りますねえ。
 そこで私は、今日思うのにです。守り守りの力で神のヒレイが違うのぞと言うのですから。ね。そんなら其の守り守りの力と云う物はです。ね。どう云う事を力と云うのか。又、その力と云うものの内容は、どう云う様な事なのか。そう云う所を聞いてもらいたいと思う。ね。だから皆さんだってそうです。同じ小売りをなさると云う事に致しましょう。こっちの小売店は毎日毎日仕入れに来て、えらい、どんどん売れるばってん、片方は月に一回位しか仕入れに来なさらん。
 それでちゃ、まあだ前の商品が残っておると云った様に、同じ商品だって。結局小売人のいわば腕と言うか、努力ひとつで、そんなら神のヒレイが違うのぞ、おかげが違うのぞ、と云う事が云えるでしょう。ね、そう云う事に成るでしょうが。そこで、そんなら卸し売りにも力がいるなら、小売りにも力がいる事が分かります。其処でそんなら力の内容と云う事はどう云う事かと。
 私はここ二、三日、こう云う難しい本を読ませてもらいます。これは本部教庁から出ております「政治・社会問題に関する研究会」。是はまあ第二回の研究会の記録がまあ私共の様な頭の悪い者は、二回も三回も読まなければ、先生方が討議をしとられます、まあ云うならばお道のいわゆる教団きっての頭の良い先生、云うなら、お道の頭脳だと思われる様な、それこそ素晴らしい頭の持ち主の、しかも最高の学問身に付けたと云った様な先生方が集まられまして、ずーとあのー討議をしておられます。
 いわゆる議論をそれぞれに、確信すると云う所を、お話しに成って居られます。私共のように無学の者には本当に一遍読んだっちゃ意味が分からんごと、難しい事なんですね。本教の人間観を中心にしてとか、人間観社会観、本教の楽観主義と信仰の再考せんと、と云った様な問題が取り上げられて居ります。ね。もう私どん其の意味すらが解らんちゅて字引ひかにゃ解らんごたる難しい事がですね。
 まあ討議されて居ります。ばてこうりゃとても面白かちゅてから若先生やら末長さんが云うから、成る程その難しいけれども、其れがそのうようと勉強しよると面白かと、此処で今申します様に、その本当にお道の切っての教団切っての、まあ言うなら、頭の良い方達と云うか、弁の立つ人達が論じて居られる訳ですが、いわゆるお道の頭脳であると云う事。その頭脳をですね。其のまま形に表そうと云う感じ。
 頭でお道の信心、いわゆる徹底した頭脳でです。それを教団が社会問題とか、政治問題にどう係わり合いを持たなければならんかと云う事をですね。説いてある訳です。いわゆる頭で考えた事を、其のまま形に表して押し広めて行かねばならんと云うのである。だから、私が読ませて頂きよって感ずる事はですね、ははぁ是ではいけんなあ、成る程こう云う最高の、例えば考え方をです。
 考えて下さる方達もなからな為らんけれども、これを受ける私達言うならば、云うならばこう云う卸し売りを受けてです。是をいよいよ小売りしなければならない時には、そのただ、商品を並べて置さえすれば売れると云う事ではない。努力がいる説明がいると云った様な。ですから頭脳、そしてそれが形に表されると云うう事ではなくて、やはり頭脳、いわゆる頭で考えた事が一遍心でこなされてる。
 そしてそれが形に表されて行く、と云う様なおかげに成って行かなければ、折角これだけの立派な事が言われておっても、実際これを社会の上にでも、政治の問題の上にでもです、ね。折角関わりあって、それが本当の意味に於いてのおかげに成ないと云う風に、まあ、分からんけれども、私はそんな風に感じたです私。言うならです。机上の空論と云った様な事を申しますがね。
 どんなに米はこげんして作るもんだと云う事が、学問の上で分かってもです。此処には一粒の米だって実らないと云う事。そう云う学問を身に付けたなら、実際自分が地に降り立って云うなら大地に降り立って、そして田を耕し肥料を施し、そしてそこに種をまかせてもろうて、初めて実が実るのだと云う訳なんです。ほいてして是を私は机上の空論とは思いません、それぞれ教会の先生方ですから其れだけ、布教なら布教の上に置いても、取次ぎ者としての実績も上げて居られる先生方ばかりなんですから。
 けども何とはなしにそう云う感じを私は訳の分からんなりにも、そう云う風に感じたんです。ね。そこでです。そんなら頭脳から心に移って来る。心でこなすと云う事が、力がなからなければこなされないと云う事。そこでですね、其のこなす力と云うものは、どう云う事かと。ここにあります。守り守りの力によって神のヒレイが違うと仰る、この守り守りの力と云う事はど云う事か。
 それを、わたしは今日は、教えなら教えを解らしてもらうと云う訳ですね。頭で分かると云う事それをです私共の心でこなす、それが、形に表れる、だからその心でこなすと云う事に、力が必要だと云う力は、どう云う様な状態にならせて頂いたらその力が出来るかと云う事をですね、わたしは今日はこう思うのです。是は、何の稽古でも同んじだそうですけれども、稽古して行きよりますと、スランプ状態と云った様なものがね訳が解らん様な時代が来る訳です。
 昨日の午後でしたか、青年会の方達が四・五人集まりましてね、日吉さんやら信次さん、それに末永さんやら若先生も皆んな加わってお話をした事で御座いますがね。日吉さんが、言ってました。本当金光さまの御信心が有り難い、素晴らしいと分かるけれども、時々何が何やら分からん様に成って来る。そして止めようかと思う事すらある。こう云うね。その止めようかと思う時にはです、必ず節に当たっておる時です。
 だからその節をね節を私は大切にすると云う事。是は何の稽古でも取り分け信心ではそれなんです。私共、ずうっと稽古させてもらいよる、其れはね、伸びる為には絶対節が必要なんです。その節から折れていく人、節をいい加減にしていく人、折れはしなくても節をいい加減にしとるから、次の節が大きくも、太くもならない。只、節が越えたと云うだけ。ところがです、この節を大切にする人、その節を本気で取り組んで行く人が必ず大きく伸びて行くです次に。これはもう絶対です。
 節を大事にする人は、必ず伸びます。けれどもその節から折れる人も沢山あると云う事です。節は折れやすい。信心し依ってこげなこつが起きるなら、と云う様な事で、信心をやめる人がある。段々本当に有り難い有り難いと言うてまあ朝参りなら朝参りをさせてもろうて、信心が分かって行きよるかと思うと、ある所でピタッとこう分からなくなって来る。そこをしだごだにして行くから、次ぎに伸びる所もしだごだ、そこん所を本気に取り組んで行くと云う事。ね。
 いわゆる節を愈々本気で大切にする、それが伸びると云うだけではなくて、伸びる元がその節にあるのです。だから節を乗り越える時に私共は力が必要なのですね。守り守りの力、その守り守りの力又はその守り守りと云う事を守りと云う事を、私は今日は卸し売りとこう申しました。だから、ならそれを受けて小売りをする人達が、そんなら皆さんであるとするならです。
 小売場でだって売れる売れないは小売人の力に依る事になりましょうが。その力はどう云う風にして得られるかと云うとです。大体お話しを頂いて分かると云う事には大抵みんな、そう変わりはありません。けれども教えを受けて行っておって、そこから一つの、ね。だんだん分かって行って、解って行くからそこに、解って行くからこそ、云うなら壁にぶつかると云う事もある。
 同んなじやないですから、例えば普通で言う難儀に直面する場合がある。例えば昨日の朝のご記念に合楽会の会長さんの中野さんが、久しぶりに参りなって居った。帰られてからま家のかせいかなんかなさって居られて。なら踏み次にか何か持って来て上にある事をどうかしよんなさった。そしたらやっぱりまあ歳は争えない、足元がちがってそのまま上から飛び降りるも、機敏さが無くなって歳を取っておるからそのまま倒れてから、柱の下の石が在るでしょ据け石ちゅてから据け石に頭を持って行った。
 ほうれであぁたもう頭の方から大変な血は出るしね、それからすぐお医者に行かれて二針も縫われた。もう久しぶり朝参りしたら、もうろくな事は無か、というたら、もうそれまでだったでしょうねえ。所が昨日は大体二十九日の敬親会が昨日九日がないから昨日あったです。そして考えられたんです、これは医者に行くよりも教会にお参りした方がおかげ頂くと思うた。昨日また出てこられた。
 頭にこう鉢巻きをして居られますから、どうしましたかとそしたら、こうこうだったち云う。まあ言うならね、本当に朝参りでもしようかと云う意欲が出て来た訳ですよねえ。そしたら、たまたま朝参りしたその日にそう云う事が起こった。そして昨日今朝、こうして参りなさっておられる。これはいうならそう云う節をを見事に、元気な有り難い心で受けぬかれたと云う事です。
 もう参るとろくな事は無かばいと、本当ならもう信心に打ち込んで、却って難儀になると云う場合があります。けれども其処から生まれて来る守り守りとしたものが、力なのです。昨日、丁度青年の方達がばっかりが話をする時に、信司さんが来て居りまして、信司さんが言うて居るんですよ。又私が言いました事もそうでしたけれど、とにかく信司君が、いわゆる子供時代からいわゆるお母さんの信心に。
 いわば訳は分からんなりに付いて来た。けれどもあんたが場合は、本当にお母さんが、あれだけ熱心に信心するけん、是がおかげじゃろうと云う事が、一っつも無かったね、と私が言うのです。言うならばですもう。本当にそのまあ二人ともお母さんて云いよりましたから、兄弟ですからいわゆる本当云うと、お母さんと叔母さん。肝心要のお母さんも叔母さんも死んでしまうと云うう結果になってしまった。
 若い二十いくつもの青年が、それに兄弟とかお婆ちゃんとか、四っつも葬式を続けてする。言うなら子供時代からこの青年期に至ってです、本当にお母さん達が信心してくれるけんで、やっぱ是がおかげじゃろうと、実際に見るような事はひ一っつも無かったろうけれどもです。その都度その都度に信心が、本格的なものに成って来たと云う事である。二、三日前も、創価学会の人といろいろ話をさせて頂いた。
 自分の信念を、自分のかく思うと云う事を話したら、それこそ成る程あんたが言うのがほんなこつ、と言うて創価学会の人が帰った。大変な勉強をしてあるそうですねえ。もう、それこそ理路整然として説かれる。けれども信司さんの場合はです、自分の通って来たあらゆる体験であり力なのだ。いわゆる創価学会でもその社会の問題と云った様な、今教団が取り組んでおる様な事により取り組んで居る訳です、現在の創価学会は三カ国語を覚えろと云われたそうですね。
 日本語だけではいかん社会本題に取り組む為には、日本語も知っとらにゃいかん支那語も知っとらにゃいかん、と云う様にその勉強を指導されるそうです。けどね結論はね、結局いかに、んなら社会にその伸びようとして社会のなら難儀から人が助かって行く働きをしても、肝心要のあなた自身が助かって居らなければ駄目なんだと。私はそう云う意味で助かっていきよる。
 そんなら私自身が助からずして、この人を助ける事が出来るはずはないじゃないかと云う事を話したら、ほんなこて、あんたが言うのがほんなこつと云うて。その言われたと。助ける道だけは知っとるばって、自分自身が助かっていない。成る程これでは助けようがないと、と言いながら、信司さんが言われる事はです。これはもう子供の時から聞いて来た事が、お道の信心では和賀心、おかげは和賀心にあり、と云う和賀心。
 最近はこの和賀心時代が必ず来る、お互いがその和賀心を一ついよいよ自分の物にして行かねばならないと言われるが、いわゆる頭脳頭では分かるほんなこと、そうだと思うけれどもそれが続かない。頭で分かっただけでは。成る程先生が言われる様に、本当に心が和らいで、したら本当に良かろうと思う、本当にどんな場合でも喜べれる心が在れば、本当に人間が助かっておる姿と云うのはそう云う時であろうと思う。
 だから其の事がどうしても、何時も考えて居るけれども、和賀心とは似ても似つかない心がいつも起きておったと、こう言うのである。今度の寒修行からひき続いて、山にお滝の水を頂に行く事に参加して居りました。そう云う例えば修行を通して、是はいわゆるご体で分かった事なんです。体で分かった事はどう云う事かと云うとです。今まで長い間信心させて頂いておってこの和賀心をです。
 和賀心になる事のめの修行を、どうしてせじゃったろうかと思います、昨日言いよります。おかげを頂くための修行はしたけれど、お参りもしたけれど、朝参りもしたけれどこの和賀心になる事の為の朝参りを、なぜしなかったであろうか。その事の為の修行になぜ取り組まなかったろうか。そう云う風に分からせて頂いたら、朝参りだけではないお水を頂くだけではない、日々起きて来る問題そのものもです。
 和賀心になる事の為の修行であると分からせて頂いた。成る程、完璧とは言えないけれどもです、全然、物の見方が変わって来た。どう云う難儀な問題、腹の立つような問題、是が、我賀心になる事の為の修行だと思う様に成ったと、こう言う。信司さん、もうそこまで、其処まで分かったらもう安心だと、昨日申しました。素晴らしいでしょうが。それは、どこから生まれて来たか、修行から生まれて来た。かつてして来た事のない程しの、例えば荒修行をさせて頂きよるうちにです。
 自分のこの修行が何が目的なのか云うふうに色々考えて行く所から、まぁ其処のねきはまあ説明をしませんでしたけれどもね。まあそうでしょうして行きよる中に翻然と分からせて頂いた事はあれ程先生が、和賀心和賀心と言われるがその和賀心が頂け、その和賀心を育てて行く事の為の修行を、今までどうして気が付かなかっただろうかと言うております。皆さんどうでしょうか、だから和賀心を育てて行く事の為のです、ね。
 修行と言う事がです、今私が申します様にそんなら節に直面致しますですよ。難儀と云う事に直面致しますよ。そんなら小さい意味で言うならば、中村さんはたまたま朝参をしたら、その日に怪我をされたと云う事に直面された訳です。それがねそれがいよいよ信心を解らせて下さる事の為、神様の思し召しに違いないと、又、昨日もお参りされた、朝参りをして来ておられると云う事。是を信司さんの方で云うならば。
 例えばそう云う例えば難儀に直面した節に直面した時に、此の節こそ愈々和賀心を育てて下さる為の修行だと、受けて行くのですからこげな見事な受け方はないです。だから信心が其処まで分かりゃね、もう云うならばそれを教える師匠もです、云うならば神様もまあ安心して下さるだろうと私はこう申しました。そう云う心が開けて来たならもうおかげ間近かだと云うふうに私は申しました事です。
 力と云うのはその様にして頂ける、是は教師も信者もない、そう云う所に愈々信心で頂き抜くて力を受けて初めて私はその力がね、いうなら守り守りの力に成ってヒレイになって表れて来るとこう思うのです。どの様な素晴らしい頭脳を持っておりましても、頭脳だけでは人は助かりません。だから金光教はこげなこつじゃいかん、もう少し社会性を持たなきゃあいけん、政治なんかに手を出すと感謝もしなけりゃあいけん。
 そして教祖が所謂教祖的ですねえ、それはあの宗祖、やはり教祖的と云って居られますね。教祖的そのう ものが社会に入って、だから是はお道の信心だけの事じゃなかです、仏教なら仏教、ね。キリスト教ならキリスト教でもいいキリスト教の教の教祖と、その教祖的なものが社会に流布されてなければならない。金光教の教祖的なものが社会にも見られるようにならなきゃならない。最近最近じゃないもう私共は青年時代から聞いてきた言葉の中に教祖にかえれ、教祖に帰れと云う事が言われて居ります。何か問題にぶつかると、教祖に帰れと。いかに教祖に帰れ、教祖に帰れと万遍言うたってです。
 本当に教祖に帰る事に精進しておる人が言わなきゃ、なあにもならんです。それは教祖の様な生き方を自分の身に受けると云う事は、なかなかでしょうけれども、それこそ、触れば暖かみを感じ、つつけば血が飛び出る様な、生々しい教祖の御信心に帰れと言うのである。それに自分自身が生々しいそれこそ、触れば血が飛び出る様なですよねそう云う信心を自分自身が頂かずして、いかに教祖に帰れ、教祖にかえれと何十年間叫び続けてきたって、だあれも帰ろうとする人はありません。
 それには、教祖がたどられた、道をたどらせてもろうて、本当に教祖は、こう云う事を考えられたのではなかろうか。教祖が和賀心とおっしゃるのは、こう云う心なのではなかろうか。教祖はこう云う喜びにひたられたのではなかろうかと云う、教祖もこう云う思いをされただろうと思う様な、私は教祖の御信心が、自分の体験の中に、あらなければ駄目だ。そして教祖にかえって見てごらん。
 こんなに有り難いんだと云う事を、人に伝えなきゃ駄目だとこう。アメリカに行け、アメリカに行け、アメリカは素晴らしかと云うたっちゃです。行ったこつもなか者が言うたっちゃどうする。行ってみて聞いて来て、成る程アメリカは素晴らしいと云う事が言えるように、又ならその人が言っておる事を聞いて見ろうと云う気にもなる様にです、いかに教祖にかえれ、教祖にかえれと言われた所でです。
 自分自身が教祖に帰えらして頂くと云う事になったら、この様な素晴らしい有り難い事に成んだと。それが私は人に伝えられて、教祖に帰る事以外にない、と云う風に説かれる時に、又その人の後を続いて、本気で教祖に帰ろうと云う人達が出来て来ると私は思う。金光様の御信心は、何と言うてもです。それこそ死んだと思うて欲を離しと天地の親神様が教祖の神様に御依頼があってる様に、本当に教祖に帰る為には、本当に取次者が死んだ気で欲を放さねば出来ないと云う事が分かります。
 それをもう我情我欲、教会を大きく建てて見たい、信者が沢山参って来ることばっかり願いよったっちゃですね。自分が死んだ気にもならずしておいてから、例えばどんなに政治と、社会問題にいかに取り組んだ所ででよす、本当に欲を放して教祖的内容がよく出来て、そしてそれが社会しかもそれが私の是は考えなんですけれども。そうゆうここに楽観的と言った様な事を、言って居りますけれど。
 私が言う事はいかにも楽観的なんですよねえ、座っておってと言うのですから、金光様の御信心は、此処に座りきって、御結界にいわゆる畳半畳に座り切って社会の難儀に取り組んで行けと言うのですから。成る程、楽観的な様ですけれども、実を云うたら、楽観じゃない。楽じゃないです。そう云う教祖が開いて行かれた様な心を開いて行く為の修行なのですから、言わば、死んだ気でと云うのはそれなんです。
 只座っておると言うのじゃない、欲を放して座るのだ。そこに救いを求めて来る難儀な氏子らが的確に救い助けられて行という程しの力を取次者が頂かなければならない様にです、そんなら小売りをなさる皆さんでも同じ事が云えます。我情我欲を放れてと仰るが、その我情我欲を本気で話す稽古をさせて頂かなければです、金光教の信心は売れんです。売らんかなの為にいくらお喋りをした所で。
 売らんかなの為にいくら勉強しますと云うた所で、それはおかしなものになって来る。自分自身の云うならいわゆる。教祖に帰れと云う事もでもです、本気で自分自身が、なる程教祖に帰ると云う事の修行をさせてもろうて、其処から生まれて来るもの、教祖の神様はこう云う道を辿られたんだと、こう云う道を辿りながら、こう云う実感ををなさったんだと、こう云う喜びに浸られたんだなぁと云う様なものをです。
 自分の信心の上に頂いて行く事が、教祖に帰れと云う事なんだ。成る程教祖に帰れば御蔭が頂れける。生々しい言うならゴヒレイが、輝いて来るだろう。今日はそう云う意味でですねえ。守り守りの力と言うのを、所謂守り守りだけではない、信心させて頂く者の力と頂く為にです、節を大切にすると云う事に依って、力を受けると云う意味の事を申しましたですねえ。
 神の守りをしておれば、諸事に身を慎み朝寝をしてはならぬ。早く起きると遅く起きるとは、氏子が参詣の早い遅いにかかわるぞと云う程しのです。はっきりした教祖の教えて下さった事が本当にそうだなと合点が行く事の為に、まず是は、取次をさせてもらう先生が、そこん所を行ずる気にならなければならない様にです、皆さんだってそうである。一辺参るより三辺、三辺より十辺。
 いや毎月、毎日お参りしさしてもらえりゃした程、御蔭が受けられると云うですね。事実をね、私は体験して行かなければならない。それが力それには修行がいる。だから修行をいとうて力を頂ける事はないと力を持たずしてどんなに素晴らしい事が解かってです。信徒会なんかの時とうとうとして信心を語る、そしたら今度はとうとうとしては語りきらんばってん、実際にお日参りでもして体験を積んで行っておる人達がです。
 体験話をする、そしていわゆる討論なったりすると。朝参りもせずして金光様の信心が分かるかちゅて、これをもう一つ決め付けられたら、もうそれでおしまい、どんな素晴らしい事言うておっても。たとえば私はこう云ういわゆるお道の頭脳と思われる方達が集まってです。金光教お道の信心を通して政治又は社会問題に対する研究をなさって居られるが、そう云う先生方が。
 勿論そう云う内容も持っておられるだろうけれども。それを頭脳で得た事が心に表されると言うなら修行に表される。そこから初めて分かったと、昨日の信司さんのそれじゃないですけれども、そう云う和賀心なら和賀心にならせて頂く為の、本当の道ずけとでもいうか、そう云うものが分かって、和賀心にならせて頂くその心でね。社会問題であり、政治問題であると私は思うのです。
   どうぞ。